深見友紀子 最高裁・パートナー婚解消訴訟 オフィシャルサイト

コラム Part 1

No.9 なぜ長男に会わなくなったか

 コラム No.8の続きとしてお読みください。

 退院して約一ヶ月後の1993年3月末、ささいなことで口論となり、相手が腹をたてて私の自宅のドアをブロックで強打し、破壊するという事件がありました。この日は退院後初めて地下鉄に乗って外出した日でした。通常の暮らしが戻った矢先のこの強打事件は、私にとって非常にショックな出来事でした。入院中でさえ否応なく銀行口座から音楽教室改装のための借入金や光熱費などが振り落とされていたので、何が何でも働かなければならなかったからです。修士課程を出て2年、研究が滞っているという焦りも大きくなっていた私は、まず自分自身が立ち直るためにしばらく長男のことに触れないように生きていこうと決心しました。このドア破壊事件から約7ヶ月間、私と相手は音信不通でした。

 生き残った長男は、4月の末に東京女子医大病院を退院することができましたが、長女を引き取って育ててくれていた相手の母は、「あなたが中絶に反対し、友紀子さんを死の淵に追い込んで生まれてきた子どもなのだから、あなたが自分で育てるべき」と息子に言って、長女のときとは違って長男の養育を拒絶したため、相手は長男を広尾にある日赤医療センターの乳児院に入れました。このことは裁判の書面では触れていない事実です。母親が病気という理由で入れることができたと聞いていますが、父親が病気という理由で入れることができるでしょうか。甘い審査基準だと思いました。

 翌1994年の夏休み、私は双子の出産で伸びきった腹部の皮膚を上下に8センチ縮める形成手術を女子医大病院で受けました。私の場合は、普通の双子ではなく、羊水がたまって子ども5人分ぐらいの大きさになるという滅多にない状態だったので、出産後腹筋さえ思うように使えなくなっていたのです。この手術によって日常生活には支障がなくなりましたが、皮膚表面の醜さは完全には治りませんでした。子どもを出産した後の回診で私の伸び切ったお腹の皮膚を引っ張ってニヤリと笑った男性医師のことも決して忘れられませんでしたし、入院中の忌まわしい出来事の一つ一つも消えませんでした。何事にも人一倍タフなのに、十数年経った今でもその忌まわしい出来事の数々は脳裏に焼きついています。

 人々は子どもの心の傷について過度に敏感であり、昨今その傾向がより強くなっていますが、妊娠・出産する女に対しては鈍感そのものです。医療が進歩したといっても、出産で死亡する女性は10万人に7人で、交通事故の死者10万人に9人とほとんど変わらない。私の知り合いに出産の際の輸血が原因で肝炎になり、その後20年間ずっと療養生活を余儀なくされている人もいます。人々は「生まれてきた子どもには罪はない。」と言うでしょう。母にも何度も言われた、おそらく自分でも他の人に言うかもしれないこの常套句も、命を落としそうになり、自分の体と心を傷つけられた私には苛めの言葉です。

 借金があるということは「人生を抵当に取られているようなもの」(当時そういう感覚を持っていた人たちはまだ少数でしたが、今では身に染みている感じている人も多いはずです)。不安定な非常勤講師と自営の音楽教室の講師として必死に働いた結果、1995年の暮れ、私は改装のための借入金1600万円を予定の3分の1の期間で完済しました。そのすぐ後、富山大学の助教授に内定し、翌春赴任することになります。この春、長男は日赤医療センターの乳児院から八王子の養護施設に移りました。相手の母の話では、「友紀子さんは死んだということにしてある」ということでしたが、見知らぬ土地である富山での暮らしと、毎週富山と延10時間もかかって往復し、東京の音楽教室を維持していくという生活リズムに慣れることで私は精一杯でしたし、長男妊娠中の取り決めで、相手の養育内容について異議を申し立てないという約束をしていたので、意見は言いませんでした。母親が死んだということで預かった施設、育児は母親の役割であるとする世間の視線、妻が死んだとウソをつき、平然と施設に預ける相手・・・私は面会する気力も無くしました。

 乳児院にいたときも、長男は正月とお盆には相手の実家の静岡に出かけて、長女と会っていました。長女が私のことを話す可能性があると思った相手は、姉弟が2人っきりになるのを避けていたと長女は言っています。相手の母はこのような状態は長くは続かないと思ったのでしょう。長男が小学校1年生になる1999年の春、長女とともに上京し、長男を施設から出して息子とともに一緒に暮らそうとしました。ところが、このときは相手に拒絶されました。相手の母によれば、その理由は、「自分の母親(お祖母さん)の育児方法に対する嫌悪」と「養護施設に入れておくことの経済性」ということでした。これ以降、長女と相手の母は、相手が1人で暮らす私設文庫のすぐ近くに住むことになりました。

 上京した長女は、週末には私を訪ねてくるようになりました。私にピアノのレッスンを受け、私の生徒たちと一緒に遊びに出かけたり、生徒の家で泊まることもありました。長女は一週間のうち数日、私設文庫に置いてある私のピアノを弾くために通っていました。「養護施設に入れておくほうが経済的に助かる」ということには呆れたので、「名の知れた会社に勤め、祖母と実姉が同じ町に住んでいても、養護施設に入れて公的な補助金を使うことができるのですか」という手紙を八王子市役所の福祉課に匿名で出したこともありました。その後しばらくして、突然結婚相手となる女性が現れました。この人は相手が独身であるか既婚者であるか、子どもがいるのかどうかも知らなかったのです。

 平成13年4月30日、彼の自宅に遊びに行ったときには、彼にはたぶん奥さんと子供2人ぐらいはいるのだろうとは思っていた。文庫の裏とか近くに皆が住む別宅があるのかと・・・。(平成14年1月5日付 相手の結婚相手が東京地裁に提出した答弁書より 原文ママ)

 相手はこの日に結婚を決意して、長男を引き取り、母を静岡に戻して、長女と4人で暮らそうと思ったのです。しかし、長女はそれを拒絶し、4年経った現在でも相手の母と2人で暮らしています。長女が再婚相手の所持品を触っているという疑いをかけられて私設文庫の鍵を取り上げられ、出入り禁止になったため、ピアノの練習はできなくなりました。私設文庫は本ばかりか人間にとっても過酷な建物であるため、相手と妻、長男は近くの町に家を借りて住み、長女と長男は一切会っていません。提訴する少し前、私は施設を出すのであれば面会権を欲しいと要求したのですが、相手に拒否されました。

 以上が、長男に関するこれまでの経緯です。

 長男の養育について出産前に取り決めをしたことについて、「子育てをやってみて、やっぱり仕事との両立は無理と弱音を言うのならともかく、初めから子育てをしないと、しかも紙に残すのは非人間的」という批判があるようですが、思惑通りには行かず結局仕事ができなくなってしまった女性や、言い訳ばかりの子持ち女性、子育て期間は"充電"期間といいながら結局"放電"し続けている女性をたくさん見てきた私は、その轍を踏むものかと心に決めたのです。仕事を続けたいと思っても、自分が育児を引き受けなければならないから子どもを産まない。子どもを産めば仕事をやめざるを得なくなり、自分の社会的な能力を発揮できなくなってしまう。両立している女性は、「そんなに仕事をしたければ、産まなきゃいいじゃないですか」「本当はお母さんが育児に専念するのが一番いいのですよ」という言葉を浴びせられる。私はこうした女性たちの後悔、挫折感、罪悪感などのすべてから自由でいようと思ったのです。田村亮子さんは「ママになっても金」を目指すそうですが、誰にだってそれぞれの金メダルを目指して無我夢中になりたい時期があります。大学院を出たとき既に34歳になってしまっていた、出遅れた私にとって、それが長男を産んだ35歳以降の6、7年だったのです。出産後育児をしていたら、大学教授の今の私は絶対にありません。

 長男にとって私との母子関係が不幸であるというのなら、一卵性双生児の一方が死亡し、自分だけが生き残ったという事実も過酷な運命であり、彼にとってそれだけでも十分に不幸なことでしょう。しかし一方、長男は幸運の持ち主です。施設にいるという報道が出たときに、多くの人が長男には障害があるに違いないと想像したようですが、長男にはいかなる障害もありません。長男が健康なのは私の我慢と体力によって妊娠9ヶ月までもったからであり、死産した子どもの解剖が行なわれたほど稀有な状況のなかで、私の命の危険と引き換えに健康な人間が生まれたことはまさに奇跡です。「長男は不幸な子ども」・・・そのように単純に決めてしまうことができる人たちは、ある意味幸せな人たちだと思います。道徳の教科書に書いてあるようなことをそのまま鵜呑みにして、型通りの観念を形成しているからです。人生とはもっと複雑なもの、そしておもしろく、最後まで結果はわからないものです。

 私は長男を産んだことを後悔したことはありません。産んでよかったと思っています。私が70歳になったとき、それぞれ38歳、35歳になる娘や息子もまた子どもだからです。長女は「いつかアタシが弟に事実を伝える」と言っていますし、弟にも幼いときに静岡で姉と遊んだ記憶は残っているはずです。長女は長女なりに、母である私の後姿を見て育っていますし、私は今たまたま長男に会えていないに過ぎないのです。

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深見友紀子(ongakukyouiku.com)

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