深見友紀子 最高裁・パートナー婚解消訴訟 オフィシャルサイト

コラム Part 1

No.8 長男出産の経緯

 1991年10月、私はそれまで住んでいた賃貸住居を引き払い、親から生前贈与された一戸建てに転居し、翌年2月には、改装資金1600万円を銀行から借りて同所に自身の音楽教室をオープンさせました。

http://www.japandesign.ne.jp/HTM/D-SPACE/MAP/KITAOKA/kitaoka-2out.html

 その数ヶ月後、私は第2子を妊娠しました。長女を産む前はどうも子供は性に合わず、欲しいとはあまり思わなかったのですが、長女の出産はとてもおもしろい体験だったので、また産んでもいいかなと思ったのです。

 当時の私の仕事は、高崎にある短期大学の非常勤講師と自宅の音楽教室のレッスンでした。長女の出産のときにヤマハ音楽教室を解雇された私は、今度はそういう目に遭わないようにと、出産予定日を3月下旬に計画しました。非常勤講師は一年契約でしたから、春休みに子どもを産むことにしたのです。第2子の出産予定日は計画通り1993年3月23日になりました。

 ところが、13週目ぐらいに双子であることがわかり、主治医から「華奢な体格なので妊娠7ヶ月ぐらいまでしか持ちこたえられないだろうから、その後は入院して管理しなければならない。かなりの未熟児になるかもしれない。」と言われました。華奢な体格は今も変わらず、中年になった今でも、25歳のときとまったく同じ、160cm、48kg、7号サイズです。

 私は中絶を望みました。当時の気持ちを思い起こせば、子どもが未熟児になるという不安よりも、長い期間仕事を休むことはできないという気持ちが大きかったです。しかし、中絶を相手が聞き入れなかったため、長女の時は口約束だった「子どもは相手が養育する」という内容を公正証書で取り交わしました。ここで約束を残しておかなければ出産後働けなくなるかもしれないと思ったからです。私は家計の足しに働くパート妻でもなければ、休業補償のある公務員や会社員でもなく、不安定な身分で自分が稼ぐことによって生計をたてていたのですから。この取り決めについて、ネット上で「産む性としてはあるまじき行為」「鬼のようなひどい女」と言っている人が多くいますが、なぜ相手がこうした取り決めに応じたのかを想像できるかどうかが、この事件の真相や男女関係について理解する鍵だと思っています。

 12月2日に子どもたちの発表会を行った直後、腹部がどんどん膨れ、皮膚の裂かれるような痛みに耐えられなくなって、私は長女を産んだ聖母病院に入院しました。妊娠中毒症、羊水過多症でした。10日ほど入院しましたが、聖母病院の設備では対応できないということで、今度は東京女子医大に搬送されました。その頃には肺水腫を併発し、一時危篤に。それから2月10日に帝王切開で出産するまでの約2ヶ月、導尿をされ、身動きできない状態で過ごしました。

 東京女子医大の女性医師たちは献身的でしたが、隣のベッドに靴のまま寝転がって「疲れたぁ。僕も休んでみたい。」と言ったり、「排卵誘発剤を使ったの?」と聞いてくる無神経な男性医師に出会い、身動きできないこともあって、刑務所よりもひどい所だと思いました。排卵誘発剤を使ったために三つ子以上を妊娠している女性なども多くいて、私のような女がいるところではありませんでした。よく出産はすばらしい経験だと喧伝する女性がいますが、たとえ3回産んですばらしかったとしても、それはたった3回がたまたますばらしいかっただけに過ぎず、出産とは本来、命を落とすかもしれない危険なものであるということを私は2回の出産を通じて知りました。自宅のレッスンは長女の出産のときとは別の友人に頼みました。短大の非常勤は休まざるを得ませんでした。

 生まれた双子のうち一方に異常があることが出産後3日目にわかりました。羊水過多に陥ったのは、この子どもの腎臓の機能が異常だったからと思います。この子は3月2日に死亡しました。もう一方の子どもも未熟児でしたが、4月の末には退院できることになりました。私はその間、母乳を搾って届けていましたが、会うことはしませんでした。この忌まわしい体験を早く忘れたかったのです。母乳も4月一杯ぐらいで出なくなりました。

 私には大きな借金と、失ってはならない仕事がありました。3ヶ月も休んでしまったので、もうこれ以上は絶対に休めなかったです。2月25日に退院し、その一週間後から私は自宅でのレッスンを始めました。このとき一般の女性のようにそのまま何ヶ月も仕事を休み続けたり、やめたりしていたら、大学教授である今はなかったばかりか、借金すら返せなかったでしょう。4月から短大の勤務はそれまでの週1日から2日に私から頼んで増やしてもらいました。出産と軽く言いますが、生活の糧となる仕事を継続することの保証さえもないばかりか、命の保証もないのです。

 2ちゃんねるに、「死にかかって罰が当たったと思わなかったのだろうか」といった書き込みがありましたが、失敗から学ぶものは人それぞれです。3ヶ月もの間病院の天井をみつめて感じたのは、「私は絶対に仕事をしたい」ということでした。前年に34歳で大学院を出て、不安定な非常勤講師と自宅のレッスンだけだった私はここから這い上がらなければならないと思いました。出産で苦しめられ、そのことで仕事を失い、女であるから仕方がないと諦めるほうがよほど理解に苦しみます。

 子どもを産む世代である20代から30代、それは男であろうが女であろうが職業人として自立する過程の真っ只中です。あなたが男性ならば、出産・育児のために、何ヶ月間仕事を休むことができますか。たとえ制度上は保障されているとしても、できないし、しないでしょう。男性の育児休業制度など"机上の論理"、もっと正確に言えば、"非論理的な机下の制度"なのですよ。私はもう年齢的に子どもは産めませんが、今の私なら子どもを産んで育てることもできるでしょう。子どもを持ったことにより自分のキャリアをさらにアップしていく方法がわかりますし、何よりも安定した収入と社会的地位があるからです。一部の芸能人が自分のペースで私生活と仕事を往復したり、非常に有能なキャリアウーマンが恵まれた環境のもとで両立している話を聞きますが、現実はそんなに甘いものではありません。

 "罰が当たった"はずの私は、ふと気付くと、出産前よりもタフになっていました。万年風邪を引いていた20代の頃が嘘のよう。2度の出産で私は健康をもらいました。

 出産後しばらくして、新宿区からお祝い金が届きました。死産にも贈られるので、通常の出産の2倍額50万円。私はそのお金で1993年夏にマッキントッシュLC−IIを買うことにしました。その後続くITを使った音楽教育研究は、このパソコンから始まったのです。

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